易(二十四)-周易六十四卦-家人・睽

六十四卦(十八)

詳しい前書きは易(六)を参照

本文の構造としては、性質の部分がその卦の性質つまりその卦に対応する物事の性質を表し、の部分が該当する物事への総合的な対処方法、の部分は卦の性質の構成物としての性質の詳細情報と、該当する物事への細かい対処方法である。

書き下し文は卦辞、爻辞のみで「中村璋八・古藤友子(1992)『周易本義』明徳出版社」を引用している。しかしその解釈文は、卦辞、爻辞、彖伝、象伝なども参考にしたものであり、また引用文とは異なった書き下し方をして解釈した部分もあるので、書き下し文と解釈文が食い違うことがあるということをご留意願いたい。

またそれぞれの卦の後ろの一言は「丸山松幸訳(1973)『易経-中国の思想第七巻-』徳間書店」の引用である。一言でその性質を分かりやすく示すとして記載したが、私の解釈とは一致していない場合もある。

37.家人(カジン)家人(風火家人 フウカカジン)家内安全

  性質

  家人は家庭を表し、柔順さを示す卦である。

  離の卦に巽の卦が載っている卦で、長女(巽)が上位に次女(離)が下位にいること、外卦と内卦それぞれで正を得る九五と六二が夫と妻を表し、中正であることから、円満な家庭を示している。

  大象は火が付いて風が起こることであり、些細なことが大事になることを示しており、これも家庭を表すものである。

  

  ・家人は、女の貞しき(タダシキ)に利し(ヨロシ)。

    ―女として正しい道を(女性的な性質の通りに)進めば良い。〔内(内卦、この卦では女)が正しければ外(外卦)も正しくなる〕

  

  ・初九、有家を閑ぐ(フセグ)。悔亡ぶ。

    ―家の状態を正しく保つ。悔いるようなことはない。(陽爻で正、志を強くもち綻びはない)

  ・六二、遂ぐるところなし。中饋(チュウキ)に在り。貞しくして吉なり。

    ―外で何かを成し遂げることはなく、家の中にいて、その務めである食事を用意する。柔順さを保てば吉である。(九五と中正、正、陰爻で女性的な性質の行動をとる)

  ・九三、家人嗃嗃(カクカク)たり。厲しき(ハゲシキ)を悔ゆれども吉なり。婦子嘻嘻(キキ)たれば、終には吝なり。

    ―厳格が過ぎる。悔いて改めれば吉だが、女子供が節度なく笑い転げるようにまでなってしまうと非難を受ける。(正、陽爻、中爻でなく剛に過ぎる)

  ・六四、家を富ます。大吉なり。

    ―家を富ます。大いに成功する。〔正、上位の陰爻(陽爻は義、陰爻は利を司る)〕

  ・九五、王、有家に仮る(イタル)。恤ふる(ウレウル)なくして吉なり。

    ―主人が家を円満に治める。憂うことはなく吉である。(六二と中正)

  ・上九、孚(マコト)ありて威如(イジョ)たれば、終には吉なり。

    ―誠意をもち、自己反省をし続けて威厳をもてば、最終的には吉である。(卦の最上位で家を治める道を説く)

38.睽(ケイ)睽(火沢睽 カタクケイ)嫁と小姑

  性質

  睽は背き合うことを示す卦である。

  兌の卦に離の卦が載っている卦で、水(沢、兌)は下に流れ、火(離)は上に昇ることから、上と下が交わることなく反対の方向に向かうことを表す。

  大象は上の火、下の沢である。

  

  ・睽は、小事には吉なり。

    ―小事を行うと成功する。(上下が正反対に背き合っているので、大きな物事に取り組むと失敗するが、六五と九二が中正であることは芯の部分では通じ合っていることを表すため、小さな物事を片付けると上手くいく)

  

  ・初九、悔亡ぶ。馬を喪ふも遂ふことなくして、自ら復る。悪人を見れば咎なし。

    ―悔いるようなことはない。馬を失うが、追わなくとも勝手に帰ってくる。たとえ相手が悪人であっても、会うことで咎めを避けることができる。(九四と不応だが、正応が背き合う状況の中では反って通じ合う)

  ・九二、主に巷に遭ふ。咎なし。

    ―君主と道端で会う。道を誤ってはいないため、咎めを受けることはない。(六五と中正、背き合う状況の中で六五と離れてしまうが、探し回った末に会うことができる)

  ・六三、輿(クルマ)を曳かる。その牛掣めらる(トドメラル)。その人天られ(カミキラレ)且つ劓らる(ハナキラル)。初めなくして終りあり。

    ―車は後ろから引き戻され、前では曳いている牛を留められる。また髪を切られ鼻を削がれる。最初は良くないが最後は良い。(二つの陽爻に挟まれている 上六と正応であり、このような状況において、最初は刑罰を受けるが、最後には通じ合う)

  ・九四、睽きて(ソムキテ)孤(ヒトリ)なり。元夫(ゲンプ)に遇ひ、交ごも(コモゴモ)孚あり。厲ぶめ(アヤブメ)ば咎なし。

    ―背いて孤立するが、立派な人に会って誠意が通じ合う。危ういが咎めを受けることはない。(不応だが、このような状況だからこそ初九と通じ合う)

  ・六五、悔亡ぶ。その宗(トモガラ)、膚(ハダエ)を噬む(カム)。往くも何の咎あらん。

    ―悔いるようなことはない。深く信頼する同族と交わる。自ら進んでいっても、喜びこそあれ何の咎めも受けることはない。(九二と中正)

  ・上九、睽きて孤なり。豕(イノコ ブタ)の塗(ドロ)を負ふを見、鬼を一車に載す。先にはこれが弧(ユミ)を張り、後にはこれが弧を説く。寇する(アダスル)にあらずして婚媾(コンコウ)せんとす。往きて雨に遇へば吉なり。

    ―背いて孤立する。相手が泥まみれの豚に見え、その車にはたくさんの幽霊が乗っているように見える。これを弓矢で射ようとするが、後に相手はこちらを害しようとしているのではなく、交流を求めていることに気付いて弓を降ろす。その疑心を雨で洗い流せば吉である。〔六三と正応だが、睽の極致であり疑心に満ちている しかし「盈つるは欠くる兆」であり、極まることで調和が始まる〕

 

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日本の神々-古事記編-垂仁天皇の系譜

ここでは垂仁天皇の子(景行天皇を除く)についての記述をまとめる

・本牟智和気御子(ホムチワケノミコ)

  垂仁天皇沙本毘売命(サホビメノミコト)の子

  肥長比売(ヒナガヒメ)と結婚する

  初出では品牟都和気命(ホムツワケノミコト)と表記された

  物言わぬ御子

  垂仁天皇によって大事に育てられた本牟智和気御子だったが、成長しても言葉を話さなかった。このことを憂いていた垂仁天皇は、御子が興味を示した白鳥を捕まえさせるなど、御子が口を利けるようにと取り計らったが効果はなかった。

  ある夜に天皇にお告げがあり、この祟りが大国主神のものであることが判明し、天皇は御子に二人の伴を付けて出雲の社に参詣させた。

  無事に参詣が済み、御子一行が出雲国の肥河(ヒノカワ 今の斐伊川)の仮の宮で休んでいるときに、御子が岐比佐都美(キヒサツミ)が作った築山を見て、「川下の山を象った飾りは、出雲の石砢の曽宮(イズモノイシクマノソノミヤ 砢は石に向が正しいようだ)に鎮座する葦原色許男大神(アシハラシコヲノオオカミ)を祀るために榊を立てた祭壇なのか」という言葉を発した。

  これを見聞きした曙立王(アケタツノミコ)菟上命(ウナカミノミコト)は御子を仮の宮から、檳榔の長穂宮(アジマサノナガホノミヤ 蒲葵のことでヤシに似ている)に移動させ、垂仁天皇へ報告の使者を出した。

  本牟智和気御子はここで肥長比売(ヒナガヒメ)と結婚するも、その正体が蛇であることを知り逃げ出し、追ってくる肥長比売を振り切って都へと帰還した。 

  垂仁天皇は御子が言葉を話したという報告を受けた後、大国主神の社を建設させた。

  →詳細は垂仁天皇の記事の物言わぬ御子の段へ

・印色之入日子命(イニシキノイリヒコノミコト)

  垂仁天皇氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト)の一番目の子

  血沼池(チヌノイケ 大阪府泉佐野市下瓦屋付近)、狭山池(大阪府大阪狭山市)、日下の高津池(クサカノタカツノイケ 大阪府東大阪市日下町)を作った。

  また鳥取の河上宮(カワカミノミヤ 大阪府阪南市)で大刀を千振り作って、石上神宮(奈良県天理市布留町)に治めた。その後河上宮に属する河上部の民を定めた。

・大帯日子淤斯呂和気命(オオタラシヒコオシロワケノミコト)

  垂仁天皇氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト)の二番目の子

  別名に景行天皇がある

  詳しくはこちらの記事へ

・大中津日子命(オオナカツヒコノミコト)

  垂仁天皇氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト)の三番目の子

  山辺之別〔ヤマノベノワケ ワケは姓(カバネ 一種の称号)〕、三枝之別(サキクサノワケ)、稲木之別(イナキノワケ)、阿太之別(アダノワケ)、尾張国の三野別、吉備の石无之別(キビノイワナシノワケ)、許呂母之別(コロモノワケ)、高巣鹿之別(タカスカノワケ)、飛鳥君(アスカノキミ)、牟礼之別(ムレノワケ)らの祖

・倭比売命(ヤマトヒメノミコト)

  垂仁天皇氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト)の四番目の子

  伊勢神宮で仕え祀った

・若木入日子命(ワカキイリヒコノミコト)

  垂仁天皇氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト)の五番目の子

・沼帯別命(ヌタラシワケノミコト)

  垂仁天皇と沼羽田之入毘売命(ヌバタノイリビメノミコト)の一番目の子

・伊賀帯日子命(イガタラシヒコノミコト)

  垂仁天皇と沼羽田之入毘売命(ヌバタノイリビメノミコト)の二番目の子

・伊許婆夜和気命(イコバヤワケノミコト)

  垂仁天皇と阿邪美能伊理毘売命(アザミノイリビメノミコト)の一番目の子

  沙本の穴太部之別〔サホノアナホベノワケ ワケは姓(カバネ 一種の称号)〕の祖

・阿邪美都比売命(アザミツヒメノミコト)

  垂仁天皇と阿邪美能伊理毘売命(アザミノイリビメノミコト)の二番目の子で、稲瀬毘古王(イナセビコノミコ)の妻

・稲瀬毘古王(イナセビコノミコ)

  阿邪美都比売命(アザミツヒメノミコト)の夫で、垂仁天皇の義息子

・袁邪弁王(オザベノミコ)

  垂仁天皇と迦具夜比売命(カグヤヒメノミコト)の子

・落別王(オチワケノミコ)

  垂仁天皇と苅羽田刀弁(カリハタトベ)の一番目の子

  小月の山君〔オツキノヤマノキミ キミは姓(カバネ 一種の称号)〕、三川の衣君(ミカワノコロモノキミ)の祖

・五十日帯日子王(イカタラシヒコノミコ)

  垂仁天皇と苅羽田刀弁(カリハタトベ)の二番目の子

  春日の山君〔カスガノヤマノキミ キミは姓(カバネ 一種の称号)〕、高志の池君(コシノイケノキミ)、春日部君(カスカベノキミ)の祖

・伊登志別王(イトシワケノミコ)

  垂仁天皇と苅羽田刀弁(カリハタトベ)の三番目の子

  自身の子がいなかったので、その代わりとして伊登志部(イトシベ)の民を定めた

・石衝別王(イワツクワケノミコ)

  垂仁天皇と弟苅羽田刀弁(オトカリハタトベ)の一番目の子

  羽咋君〔ハクイノキミ キミは姓(カバネ 一種の称号)〕、三尾君(ミオノキミ)の祖

・石衝毘売命(イワツクビメノミコト)

  垂仁天皇と弟苅羽田刀弁(オトカリハタトベ)の二番目の子で、倭建命の妻

  別名に布多遅能伊理毘売命(フタジノイリビメノミコト)がある

 

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日本の神々-古事記編-垂仁天皇-後

ここでは垂仁天皇とその配偶者たちについての記述をまとめる

  美知能宇斯王の娘たち

  垂仁天皇は沙本毘売命(サホビメノミコト)の言葉の通り、美知能宇斯王(ミチノウシノミコ)の娘、比婆須比売命(ヒバスヒメノミコト 氷羽州比売命、おそらく兄比売のこと)弟比売(オトヒメ)歌凝比売命(ウタコリヒメノミコト)円野比売命(マトノヒメノミコト)の四人を召し上げたが、歌凝比売命と円野比売命に関しては、容姿が醜いとして親元の丹波へ送り返してしまった。

  円野比売命は、このことが世間の耳に入ることを恥じて、家路の途中の山城国相楽(サガラカ 京都府相楽郡)で首を吊ろうとし、その後の乙訓(オトクニ 京都府乙訓郡周辺)という場所で淵に落ち死んだ。

  相楽と乙訓(当時は弟国)の地名はこの話が由来であり、それぞれ懸木(サガリキ)と堕国(オチクニ)の転化である。

  時じくのかくの木の実

  垂仁天皇は多遅摩毛理(タジマモリ)に命じて、常世国にあると言われた時じくのかくの木の実(四季を通じて実る香り高い木の実 橘のこととされる)を取りに行かせた。

  多遅摩毛理は常世国を辿り着き、冠のように葉の茂った枝を八本、葉を取り除いた枝を八本、実の付いた状態で持ち帰ったが、そのときには既に垂仁天皇は崩御していた。

  多遅摩毛理は大后である氷羽州比売命(比婆須比売命、おそらく兄比売のこと)に半分、天皇の御陵の入り口にもう半分を献上し、そこで帰還の報告をして、そのまま泣き叫んで死んだ。

垂仁天皇の配偶者

・左波遅比売命(サハジヒメノミコト)

  日子坐王(ヒコイマスノミコ)沙本大闇見刀売(サホノオオクラミトメ)の三番目の子で、開花天皇の孫、垂仁天皇の后

  垂仁天皇を夫にして、品牟都和気命(ホムツワケノミコト 本牟智和気御子)を生んだ

  初出時(開花天皇の段)と沙本毘古王の反逆の段では、沙本毘売命(サホビメノミコト)の名で登場する

  沙本毘古王の反逆

  自身の兄である沙本毘古王(サホビコノミコ)の統治権簒奪計画に協力し、夫である垂仁天皇を刺殺しようとするも失敗する。その後、垂仁天皇に全て打ち明け、垂仁天皇と沙本毘古王の間で戦いが発生した。

  沙本毘売命は兄の陣に入り、このことによる膠着状態の中で本牟智和気御子(品牟都和気命)を生んだ。沙本毘売命は御子を取りに来た垂仁天皇の使者に連れていかれそうになったが、垂仁天皇が御子だけでなく自分も連れてくるように命じることを予想しており、対策を講じていたため、使者たちは沙本毘売命を敵陣から引っ張り出すことができなかった。

  垂仁天皇と三度言葉を交わした後、遂に攻勢に出た垂仁天皇の軍勢との闘いの中、死亡した。

  →詳細は垂仁天皇-前の記事の沙本毘古王の反逆の段へ

・氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト)

  開花天皇の曾孫である美知能宇斯王(ミチノウシノミコ)の娘

  この段では氷羽州比売命比婆須比売命と複数の名前で登場した

  詳しくはこちらへ

兄比売(エヒメ)

  上の姫、姉という意味をもつ

  以下分岐

  氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト 比婆須比売命のこと、垂仁天皇の后)

  兄比売(エヒメ 神大根王の娘)

・弟比売(オトヒメ)

  下の姫、妹という意味をもつ

  以下分岐

  弟比売命(オトヒメノミコト 垂仁天皇の后)

  弟比売命(オトヒメノミコト 景行天皇の子)

  弟比売(オトヒメ 神大根王の娘)

・沼羽田之入毘売命(ヌバタノイリビメノミコト)

  開花天皇の曾孫である美知能宇斯王(ミチノウシノミコ)の娘で、氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト 比婆須比売命、※兄比売のこと)の妹

  垂仁天皇を夫にして、沼帯別命(ヌタラシワケノミコト)伊賀帯日子命(イガタラシヒコノミコト)を生んだ

  兄比売(エヒメ)もしくは弟比売(オトヒメ)の可能性がある(詳細)

・阿邪美能伊理毘売命(アザミノイリビメノミコト)

  開花天皇の曾孫である美知能宇斯王(ミチノウシノミコ)の娘で、氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト 比婆須比売命、※兄比売のこと)と沼羽田之入毘売命(ヌバタノイリビメノミコト)の妹

  垂仁天皇を夫にして、伊許婆夜和気命(イコバヤワケノミコト)阿邪美都比売命(アザミツヒメノミコト)を生んだ

  兄比売(エヒメ)もしくは弟比売(オトヒメ)の可能性がある(詳細)

・迦具夜比売命(カグヤヒメノミコト)

  大筒木垂根王(オオツツキタリネノミコ) の娘で、開花天皇の曾孫

  垂仁天皇を夫にして、袁邪弁王(オザベノミコ)を生んだ

・苅羽田刀弁(カリハタトベ)

  山城大国之淵(ヤマシロノオオクニノフチ)の娘

  垂仁天皇を夫にして、落別王(オチワケノミコ)五十日帯日子王(イカタラシヒコノミコ)、伊登志別王(イトシワケノミコ)を生んだ

・弟苅羽田刀弁(オトカリハタトベ)

  山城大国之淵(ヤマシロノオオクニノフチ)の娘で、苅羽田刀弁(カリハタトベ)の妹

  垂仁天皇を夫にして、石衝別王(イワツクワケノミコ)石衝毘売命(イワツクビメノミコト)を生んだ

・山城大国之淵(ヤマシロノオオクニノフチ)

  苅羽田刀弁(カリハタトベ)弟苅羽田刀弁(オトカリハタトベ)の父で、垂仁天皇の義父

 

 

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日本の神々-古事記編-垂仁天皇-前

ここでは垂仁天皇を中心にまとめる

・伊玖米入日子伊沙知命(イクメイリヒコイサチノミコト)

  御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエノミコト 崇神天皇)御真津比売命(ミマツヒメノミコト)の一番目の子

  左波遅比売命(サハジヒメノミコト 後述の沙本毘売命)を妻にして、品牟都和気命(ホムツワケノミコト 後述の本牟智和気御子)を生んだ

  氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト 比婆須比売命、※後述の兄比売のこと)を妻にして、印色之入日子命(イニシキノイリヒコノミコト)、大帯日子淤斯呂和気命(オオタラシヒコオシロワケノミコト)、大中津日子命(オオナカツヒコノミコト)倭比売命(ヤマトヒメノミコト)若木入日子命(ワカキイリヒコノミコト)の五柱を生んだ

  沼羽田之入毘売命(ヌバタノイリビメノミコト)を妻にして、沼帯別命(ヌタラシワケノミコト)伊賀帯日子命(イガタラシヒコノミコト)を生み、阿邪美能伊理毘売命(アザミノイリビメノミコト)を妻にして、伊許婆夜和気命(イコバヤワケノミコト)阿邪美都比売命(アザミツヒメノミコト)を生んだ

  迦具夜比売命(カグヤヒメノミコト)を妻にして、袁邪弁王(オザベノミコ)を生み、苅羽田刀弁(カリハタトベ)を妻にして、落別王(オチワケノミコ)五十日帯日子王(イカタラシヒコノミコ)伊登志別王(イトシワケノミコ)を生んだ

  弟苅羽田刀弁(オトカリハタトベ)を妻にして、石衝別王(イワツクワケノミコ)石衝毘売命(イワツクビメノミコト)を生んだ

  別名に垂仁天皇(スイニンテンノウ)があり、また伊玖米入毘古伊佐知命(イクメイリビコイサチノミコト)という表記されることもある

  師木の玉垣宮(シキノタマガキノミヤ 奈良県桜井市穴師付近)にて、天下を治めた

  垂仁天皇は百五十三歳で崩御し、その御陵は菅原の御立野(ミタチノ)の辺り(奈良県奈良市尼辻西町、宝来山古墳)にある

  沙本毘古王の反逆

  ある時、開花天皇の孫である沙本毘古王(サホビコノミコ)は、自身の妹で天皇の后である沙本毘売命(サホビメノミコト)に、「自分と夫である垂仁天皇のどちらをより大事に思うか」と尋ねた。沙本毘売命はこの質問に兄と答えたので、沙本毘古王は垂仁天皇を殺害して兄妹で天下を統治するという計画を話して、沙本毘売命に八塩折(何度も醸造を繰り返した酒の転化で、何度も打って鍛え上げた刀の意)の紐小刀を渡し、真に兄のことを大事に思うのであれば、垂仁天皇が寝ている間に刺し殺すように言いつけた。

  沙本毘売命は垂仁天皇が自身の膝を枕にして寝ているときに、紐小刀を振り上げて、垂仁天皇の首に刺そうとしたができなかった。そして振り上げて下ろすを三度繰り返した後、その悲しい気持ちに耐えきれずに涙をこぼした。

  その水滴が天皇の顔に落ちて、目を覚ました垂仁天皇は、沙本(奈良県佐保台法連町周辺)の方からにわか雨が降り出して顔を濡らし、また錦色の小蛇が首に巻き付くという不思議な夢を見たといい、何の前兆だろうかと漏らした。

  沙本毘売命はこれを聞き、もはや隠し通すことはできないと感じて、兄の計画について話した。また兄と対面している状況下での質問に本心を述べることができなかったということ、悲しみから首を刺すことができなかったという自身の気持ちとともに、一連の行動を打ち明け、夢はそれらの表れであるといった。

  これを聞いた垂仁天皇は危うく騙されるところだったと漏らして、すぐに兵を起こし、沙本毘古王の討伐に向かった。沙本毘古王も稲城(イナキ 実のついた稲を積み重ねて築いた城柵のことで、稲を攻撃するというタブーを逆手に取ったもの)を作って、迎え撃った。

  沙本毘売命は兄を大事に思う気持ちに耐えきれず、宮廷の裏門から抜け出して、兄のいる稲城に入った。垂仁天皇は三年も寵愛を向けていただけでなく、現在自身の子を身篭っている沙本毘売命への思いから、城を包囲させたのみで一斉攻撃を仕掛けなかった。

  そうして膠着状態のまま両軍が睨み合っているうちに、沙本毘売命が出産した。

  沙本毘売命は生んだ子供を稲城の外に置いて見せ、自分の子と思うなら引き取るようにと垂仁天皇に呼びかけた。

  垂仁天皇は沙本毘古王には憎しみがあるが、沙本毘売命はやはり大事に思っているといって、御子の受け取る使者に力持ちかつ俊敏な優れた兵士を選んで集め、御子を受け取るときに、沙本毘売命のどこかを掴んで、稲城の外に引っ張り出すように言いつけた。

  沙本毘売命はそんな垂仁天皇の心の内を読んでおり、髪は剃った後もう一度かつらのようにして載せ、玉飾りの腕輪はその紐を腐食させてから三重に腕に捲き、着物も酒で腐食させてから着て、一見完璧な衣装のように仕立てた。そして御子を抱いて入り口に向かい、稲城の外に差し出した。

  兵士たちは言いつけ通りに、御子を受け取ると同時に沙本毘売命を掴んだが、髪を引っ張るとすぐに取れ、手首を引っ張ると玉飾りの紐が千切れ上手く掴めず、着物を引っ張るとすぐに破れてしまって、結局沙本毘売命を引っ張り出すことができなかった。

  この報告を聞いた垂仁天皇は悔い恨み、また玉飾りを作った人を憎んで、その土地をすべて没収した。このことが「地を得ぬ玉作り(トコロヲエヌタマツクリ)」という諺(装飾品の不安定な消長を示したとする解釈や、褒美ではなく罰が当たったという解釈がある)の由来である。

  垂仁天皇はすべての子供の名は母親が命名するものとして、沙本毘売命に御子の名を聞いた。沙本毘売命はこれに答え、戦火が稲城を焼くときに生まれた子であるとして、本牟智和気御子(ホムチワケノミコ)と名付けた。

  続けて、養育の仕方について尋ねたので、沙本毘売命は乳母、大湯坐(オオユエ 赤子を湯に入れる役目の女)、若湯坐(ワカユエ 大湯坐の補佐)を決めて育てるようにいった。

  最後に誰を新たな妻とすれば良いか〔(誰が私の下着の紐を結んでくれるのか(妻が夫の下着の紐を結ぶ習俗があった)〕と尋ねたので、沙本毘売命は美知能宇斯王(ミチノウシノミコ)の娘である兄比売命(エヒメ おそらく比婆須比売命、氷羽州比売命のこと)弟比売(オトヒメ)の二人を心の清い人として、候補に挙げた。

  これらを聞き終わった後、垂仁天皇は攻撃を開始し、沙本毘古王を殺した。沙本毘売命も兄に殉じた。

  物言わぬ御子

  垂仁天皇は本牟智和気御子を可愛がり、倭の市師池(奈良県桜井市)や軽池(奈良県橿原市大軽町)で舟遊びをさせるにおいても、わざわざ尾張国(愛知県の西部)の相津(未詳 福島県の会津ではない)の二俣杉(二俣に分かれた杉)をくりぬき小舟を作って、都まで持ってこさせるほどであった。

  しかし本牟智和気御子は髭が鳩尾に届くまでに成長しても、言葉を話さなかった。そんな中、空を飛ぶ白鳥の声を聞いて、本牟智和気御子が口を動かし、言葉らしきものを発したことがあった。もう一度その白鳥を見たら、御子は口を利くようになるのではないかと考えた垂仁天皇は、山辺大鷹(ヤマノベノオオタカ)にこれを捕えるように命じた。

  山辺大鷹は木国(紀伊国 和歌山県、三重県南部)、針間国(播磨国 兵庫県南西部)、稲羽国(因幡国 鳥取県東部)、旦波国(丹波国 京都府、大阪府、兵庫県の一部)、多遅麻国(但馬国 兵庫県北部)、近淡海国(近江国 滋賀県)、三野国(美濃国 岐阜県)、尾張国、科野国(信濃国 長野県)、高志国(越国 北陸地方)と追って、遂に和那美の水門(ワナミノミナト 新潟県)で網の罠により捕えることに成功した。またこの和那美というのも罠網から名付けられた地名である。

  山辺大鷹は捕えた白鳥を都に戻って献上したが、白鳥を見ても本牟智和気御子は喋らず、垂仁天皇の思惑は外れた。

  このように垂仁天皇は本牟智和気御子が口を利かないことを憂いていたが、ある夜夢の中で、自分の宮殿を天皇の宮殿のように立派なものに整備すれば、本牟智和気御子は口を利くようになるというお告げがあった。後に太占で占った(牡鹿の肩骨を焼いて吉凶をはかる)ところ、そのお告げは出雲の大神(大国主神)のものであり、御子が物言わない祟りもこの神によるものと判明した。

  垂仁天皇は本牟智和気御子を大国主神の宮に参詣させることにし、その伴として占いで当たった曙立王(アケタツノミコ)を付けることにした。

  そして出発させる前に曙立王に宇気比(ウケイ)をさせて、参詣することで御子の受けた祟りが本当に解けるのかを確かめた。具体的には「出雲大神の宮に参詣することで本牟智和気御子の受けた祟りが解けるのなら、鷺巣の池(奈良県橿原市四分町)の木に住む鷺は落ちるように」という文言で誓約をし(て結果によって神意を判断した)た。

  この鷺は宇気比の誓約通りに落ちて死んだため、参拝には効果があるということが示された。曙立王はその後に「生き返るように」といって、この鷺を生き返らせた。また甜白檮の前(アマカシノサキ 奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘の突端)にある葉の広い大きな樫の木についても、宇気比によって枯らし、生き返らせた。

  これを受けて垂仁天皇は曙立王に、倭師木登美豊朝倉曙立王(ヤマトハシキノトミノトヨアサクラノアケタツノミコ)という名を与えた。

  本牟智和気御子は曙立王とその弟である菟上命(ウナカミノミコト)を伴に出雲へ向かうことになり、どの道を行けば良いかを占った。それで奈良山(奈良県北部の平城山)から京都経由で向かう奈良口、穴虫峠を越えて大阪府経由で向かう大阪口は、蹇(アシナエ 足が不自由な人)や盲(メシヒ 目が不自由な人)に会う道だが、真土山を越えて和歌山県経由で向かう紀伊口は吉の道と出たので、紀伊口の道で進むことになった。

  そうして本牟智和気御子一行は出雲に到着し、無事に出雲大神の宮の参詣を終えた。

  都に帰る途中、出雲国の肥河(ヒノカワ 今の斐伊川)の岸に、皮のついた丸太を簀子状にした橋と仮の宮を作って、宿泊をすることになった。

  そこに出雲国造〔イズモノクニノミヤツコ ミヤツコは姓(カバネ 一種の称号)〕の祖である岐比佐都美(キヒサツミ)が、青々と茂った木々で山の形の飾りを作って川の下流に置いてから、食事を献上しに訪れた。

  このときに、本牟智和気御子は岐比佐都美に対して「川下の山を象った飾りは、出雲の石砢の曽宮(イズモノイシクマノソノミヤ 砢は石に向が正しいようだ)に鎮座する葦原色許男大神(アシハラシコヲノオオカミ)を祀るために榊を立てた祭壇なのか」と尋ねた。

  これを聞いて曙立王と菟上命は御子が話したことに喜び、御子を檳榔の長穂宮(アジマサノナガホノミヤ 蒲葵のことでヤシに似ている)に移し、垂仁天皇に知らせるべく早馬の使いを出した。

  その宮にいるときに、本牟智和気御子は肥長比売(ヒナガヒメ)と一夜共にし、結婚したが、姿を密かに覗き見したところ、その正体は蛇であった。これに恐れおののいた御子は伴と共に船に乗って逃げ出した。

  傷付いた肥長比売は海を照らしながら、船で追いかけてきた。これを見た御子はいっそう恐ろしくなり、陸に接地し、山の低くなっている部分から船を引き上げて、陸路で都に上って行った。

  こうして本牟智和気御子一行は都に到着した。曙立王と菟上命は出雲大神に参拝したことで、御子の祟りが解けて、物を言うようになったと垂仁天皇に報告した。

  これを聞き喜んだ垂仁天皇は菟上命を引き返させ、出雲大神のための宮殿(現在に出雲大社)を建設させた。

  また天皇は御子のために、大湯坐若湯坐だけでなく、鳥を捕える役割を担う鳥取部(トリトリベ)、鳥を飼う役割を担う鳥甘部(トリカイベ)、また、御子が出雲への旅で訪れた土地ごとに、御子の名を受け継ぐ名代として品遅部(ホムジベ)の民も定めた。

 

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日本の神々-古事記編-崇神天皇の段の神と人

ここでは崇神天皇の御世について書かれた段に登場する神々の記述をまとめる

大物主神の系譜(意富多々泥古の件で登場)

・活玉依毘売(イクタマヨリビメ)

  陶津耳命(スヱツミミノミコト)の娘

  大物主神(オオモノヌシノカミ)を相手にして、櫛御方命(クシミカタノミコト)を生んだ

  神のを生んだ経緯

  ある夜中、容姿端麗であった活玉依毘売の元に、比肩する者がいないほど立派な若い男が訪れた。二人は互いに恋に落ち、共に寝て、夜ごとに同じ時間を過ごすうちに、活玉依毘売は妊娠した。

  活玉依毘売の両親は結婚もしていない娘が、妊娠したことを不思議に思って、娘に訳を尋ねた。そしてその訳を聞いた両親は、男の正体を知るため娘に今夜床の前に赤土を撒いておき、男が来たら紡いだ麻糸を針に通しその着物に付けておくようにいった。

  活玉依毘売は教えられた通りにし、朝になって糸を辿ってみると、戸の鍵穴を通って外に続いており、さらに辿っていくと美和山(三輪山)の神社(大神神社)の社の中まで続いていた。

  このことから活玉依毘売が妊娠した子は大物主神の子であることが判明した。

  そしてこのときに残っていた麻糸が三勾(ミワ 三巻)分だったため、その地に美和(三輪)という名が付けられた。

・陶津耳命(スヱツミミノミコト)

  活玉依毘売(イクタマヨリビメ)の父

・櫛御方命(クシミカタノミコト)

  大物主神(オオモノヌシノカミ)と活玉依毘売(イクタマヨリビメ)の子

  子に飯肩巣見命(イイカタスノミコト)がいる

・飯肩巣見命(イイカタスノミコト)

  櫛御方命(クシミカタノミコト)の子で、大物主神(オオモノヌシノカミ)の孫

  子に建甕遣命(タケミカツノミコト)がいる

・建甕遣命(タケミカツノミコト)

  飯肩巣見命(イイカタスノミコト)の子で、大物主神(オオモノヌシノカミ)の曾孫

  子に意富多々泥古(オオタタネコ)がいる

・意富多々泥古(オオタタネコ)

  建甕遣命(タケミカツノミコト)の子であり、大物主神(オオモノヌシノカミ)の子孫

  神君〔ミワノキミ キミは姓(カバネ 一種の称号)〕と鴨君(カモノキミ)の祖

  疫病鎮め

  崇神天皇の御世に流行った疫病を鎮めるために、その原因である大物主神を御諸山(ミモロヤマ 三輪山)にて祀った。

  →詳細は崇神天皇の疫病鎮めの段へ

その他の崇神天皇の段に登場した神々

・伊迦賀色許男命(イカガシコオノミコト)

  崇神天皇の御世で流行った疫病を鎮める祭祀のために、天之八十平瓮(多数の神聖な土器)を作り、祀るべき天つ神国つ神の社を定めた

  →詳細は崇神天皇の疫病鎮めの段へ

・宇陀の墨坂神(ウダノスミサカノカミ)

  奈良盆地の東端を守る境界の神

  崇神天皇の御世に流行った疫病を鎮めるために、赤色の楯と矛を祀られた

  →詳細は崇神天皇の疫病鎮めの段へ

  奈良県宇陀市榛原萩原にある墨坂神社がこの社であり、これがまだ榛原西峠にあったころの話だろう

・大阪神(オオサカノカミ)

  奈良盆地の西端を守る境界の神

  崇神天皇の御世に流行った疫病を鎮めるために、黒色の楯と矛を祀られた

  →詳細は崇神天皇の疫病鎮めの段へ

  奈良県香芝市逢坂穴虫にある大阪山口神社がこの社だろう

・玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)

  丹波国(タニワノクニ 京都府北部)に勢力を持ったまつろわぬ者

  崇神天皇による平定の際、日子坐王(ヒコイマスノミコ)に殺された

  →詳細は崇神天皇の平定の段へ

・日子国夫玖命(ヒコクニブクノミコト)

  丸迩臣〔ワニノオミ オミは姓(カバネ 一種の称号)〕の祖

  崇神天皇に反逆した建波迩安王(タケハニヤスノミコ)の討伐のため、大毘古命(オオビコノミコト)に伴う形で出陣し、これを射殺した

  →詳細は大毘古命の記事へ

 

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