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日本の神々-古事記編-神武東征-後

  東征-後(下部に地図)

  土雲

  神倭伊波礼毘古命一行は宇陀から移動し、忍坂(オサカ 奈良県桜井市忍坂)の大きな洞窟に着いた

  そこで尾の生えた強暴な土雲〔ツチグモ 穴に住む先住民(野蛮人というニュアンスあり)〕八十建(多数の反抗者)が、吠えながら待ち構えているのを見つけた

  神倭伊波礼毘古命は、予め大刀を持たせ合図の歌が聞こえたら土雲を切るように命じた給仕たちを土雲一人一人に付け、豪華な食事を振る舞った

  その歌というのは「忍坂の 大室屋に 人多(ヒトサハ)に 来入り居り 人多に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭椎(クブツツ 先端が瘤のように塊になっている棒状の)い 石椎(イシツツ 先端に石が付いている棒状の)いもち 撃ちてしやまむ みつみつし 久米の子らが 頭椎い 石椎いもち 今撃たば善らし」〔「忍坂の大きな洞窟に大勢の人が集まっている どんな多勢でも久米部(軍事を司る部)の兵士が頭椎の大刀石椎の大刀で撃って滅ぼすだろう 久米部の兵士が頭椎の大刀や石椎の大刀を持って、今撃ち滅ぼせ」)というもので、この歌を聞いた給仕に扮した兵士たちは土雲に切りかかり滅ぼした(地図13)

  那賀須泥毘古との再戦

  土雲との戦いの後、那賀須泥毘古と再戦することとなった(勝敗についての記述はない)

  その戦いのときに神倭伊波礼毘古命が歌った歌として、「みつみつし 久米の子らが 粟生(アワフ 粟畑)には 臭韮一本(カミラヒトモト) そねが本 そね芽縛ぎて 撃ちてしやまむ」(「久米部の兵士が日頃耕す粟の畑に匂いの強い韮が一本生えている それを根こそぎ、芽と一緒に引き抜くように、撃ち滅ぼしてしまおう」)、「みつみつし 久米の子らが 垣下(カキモト)に 植ゑし山椒(ハジカミ 山椒) 口ひひく 我は忘れじ 撃ちてしやまむ」(「久米部の兵士の家の垣根に植えた山椒 この実を口にすればひりひりとする 我々は五瀬命を失ったあの痛みを忘れない 今度こそ撃ち滅ぼしてやろう」)、「神風(カムカゼ)の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻ろふ(ハイモトホロウ) 細螺(シタダミ 小さな巻貝)の い這ひ廻り 撃ちてしやまむ」(「神風吹く伊勢の海の大きな岩に這い廻る小さな巻貝のように、我らも這いずり廻って撃ち滅ぼしてやろう」)の三つがある

  迩芸速日命

  磯城(シキ 奈良県桜井市)に住む兄師木(エシキ)弟師木(オトシキ)を撃って、神倭伊波礼毘古命の軍勢が疲労していたときの歌に、「楯並めて(タタナメテ) 伊那佐山の 樹の間(コノマ)よも い行きまもらひ 戦へば 我はや飢ぬ(ゑぬ うの脱落) 島つ鳥 鵜養(ウカイ)が伴 今助けに来ね」(「伊那佐山(奈良県宇陀市)の木々の間を神経を尖らせながら通って戦っているうちに、私たちは飢えてしまった 鵜飼の人々よ、すぐに助けに来てくれ」)がある(地図14)

  そのように進軍していると、迩芸速日命(ニギハヤヒノミコト)がやって来て、神倭伊波礼毘古命の後を追って天降ったと話した

  そして迩芸速日命は自身の天津瑞(アマツシルシ 天津神であることを示す玉)を差し出して、神倭伊波礼毘古命に仕えることになった

  神倭伊波礼毘古命はこのように荒々しい神々を平定し、服属しない人々を退けた末、畝火の白檮原宮(カシハラノミヤ 奈良県橿原市畝傍山麓)に居を構え、第一代神武天皇として天下を治めた(地図15)

以下地図と通ったルート(一応の土地を地図上に示したが、あくまで比定地であるので、解釈によっては位置が異なることがある)

神武東征地図

灰色は水路か陸路か判断できなかった部分、一応他の資料から水路とした

  伊湏気余理比売

  神倭伊波礼毘古命が日向にいたときに、阿比良日売(アヒラヒメ)と結婚して多芸志美美命(タギシミミノミコト)岐湏美美命(キスミミノミコト)を生んだが、それとは別に大后(オオキサキ 皇后)とするための乙女を探していた

  そういう事情があって大久米命(オオクメノミコト)は神武天皇に、この辺り(奈良県橿原市畝傍山麓)に住んでいる伊湏気余理比売(イスケヨリヒメ)という乙女が、大物主神の御子であるという話をその経緯と共に教えた

  その後のある日、伊湏気余理比売を含む七人の乙女が高佐士野(タカサジノ 奈良県桜井市付近)で遊んでいるところを大久米命が見つけ、神武天皇に向かって「倭の 高佐士野を 七行く 媛女(オトメ)ども 誰をしまかむ」(「大和の高佐士野を行く七人の乙女の誰を手に捲いて寝る妻にしますか」)と歌で尋ねた

  神武天皇は集団の先頭に伊湏気余理比売がいることに気付き、その上で大久米命に「かつがつも いや先立てる 兄をしまかむ」(「決め難いが、先頭に歩く年長の乙女にしよう」)という歌で返答した

  大久米命は伊湏気余理比売にこの神武天皇の歌の内容を話したが、伊湏気余理比売は、大久米命の眼尻に入れ墨が彫られた鋭い目を不思議に思って、歌への返事をする前にそのことについて、「あめ(雨燕)つつ(鶺鴒 セキレイ) 千鳥 ましとと(鵐 シトド ホオジロ) 何ど黥ける(サケル)鋭目(トメ)」(「雨燕・鶺鴒・千鳥・鵐のように、どうして入れ墨の鋭い目をしているのか」)と歌をもって尋ねた

  大久米命はそれに「媛女に 直に逢はむと 我が黥ける鋭目」(「お嬢さんに直接会おうと思って、このような目にしたのです」)と歌で答え、これを聞いた後、伊湏気余理比売は大后になることを承諾した

  その後神武天皇は、狭井河(サイガワ 奈良県桜井市付近の三輪山から流れる川)の側にあった伊湏気余理比売の家に一晩泊まった

  伊湏気余理比売が大后として宮廷に入ったとき、神武天皇はそのときのことを「葦原の しけしき小屋(オヤ)に 菅畳(スガタタミ) いや清敷きて(サヤシキテ) 我が二人寝し」(「葦が鬱蒼と茂る小屋の中で菅の畳を清らかに敷いて、二人で寝たものだな」)と歌った

  そうして神武天皇は伊湏気余理比売を妻に、日子八井命(ヒコヤイノミコト)神八井耳命(カムヤイミミノミコト)神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)の三柱を生んだ

  神倭伊波礼毘古天皇(カムヤマトイワレビコノスメラミコト)の寿命は百三十七歳で、御陵は畝傍山の北、白檮の尾の辺り(奈良県橿原市大久保町字ミサンザイ)にある

 

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