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日本の神々-古事記編-倭建命

ここでは倭建命〔小碓命(オウスノミコト)〕の記述をまとめる

・小碓命(オウスノミコト)

  大帯日子淤斯呂和気命(オオタラシヒコオシロワケノミコト 景行天皇)と針間の伊那毘大郎女(ハリマノイナビノオオイラツメ)の三番目の子。

  別名に倭男具那命(ヤマトオグナノミコト)、倭建命(ヤマトタケノミコト)がある。

  配偶者及び子

  石衝毘売命(イワツクビメノミコト)を妻にして、帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)を生み、弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)を妻にして、若建王(ワカタケノミコ)を生んだ。

  布多遅比売(フタヂヒメ)を妻にして、稲依別王(イナヨリワケノミコ)を生み、大吉備建比売(オオキビタケヒメ)を妻にして、建貝児王(タケカイコノミコ)を生んだ。

  山代(山城国)の玖々麻毛理比売(ククマモリヒメ)を妻にして、足鏡別王(アシカガミワケノミコ)を生んだ。

  また子に息長田別王(オキナガタワケノミコ)がいる。

  御陵は河内国の志幾(大阪府柏原市)で、ここは後述の由来から白鳥の御陵と呼ばれる。

  小碓命の西征

  景行天皇は朝夕の食事時に顔を見せない大碓命(オオウスノミコト)に不満を抱き、その弟の小碓命(オウスノミコト)に丁寧に(ねぎ)諭すように頼んだ。

  しかし小碓命に頼んでから五日経っても、大碓命は食事に顔を見せなかったので、天皇は小碓命に本当に諭したのか尋ねた。小碓命は諭したと答えたので、詳しい事情を聞くと、大碓命が朝早く厠に入ったところで待ち構えて、捕まえ手足をもぎ取り(ねぎ 「ねぐ」には「懇ろ」と「もぎ取る」の意味がある)、薦(コモ むしろのこと)に包んで投げ捨てたと答えた。

  天皇はこれを聞いて、小碓命の荒々しい心を恐れた。そこで都から見て西の方の熊曾(クマソ 九州南部)にいるまつろわぬ者(不服従者)、熊曾建(クマソタケル クマソは九州南部の地名でタケルは不服従を含む強いの意)の兄弟を二人とも、討伐してくるように命じた。

  小碓命はこれを受けた。まだ十五歳ほどであって、髪を額で結っていた(要は髪が長かった)ので、叔母である倭比売命の服を借りて、懐に短刀を忍ばせ出発した。

  熊曾建の住む場所に着いて様子を窺うと、軍隊がその家の周りを三重に囲んでおり、熊曾建はその中央にいて、新しい室(四方が囲まれた部屋)を作っていた。そしてその落成の宴が近いうちに行われるとして、宴の準備がされていた。

  小碓命はその新室の周りをぶらつきながら、宴が行われるのを待った。

  そして宴の日になって、結っていた髪を下ろして櫛を通し、倭比売命の衣装を身に付けて、若い娘に完璧に変装した。そして出入りする他の女たちの中に混ざって室の中に入った。

  熊曾建の兄弟はこの娘を一目で気に入って、二人の間に座らせて宴に興じていた。宴がたけなわになった頃、小碓命は左手で兄の熊曾建の襟首を掴んで、懐から短剣を取り出し、胸に突き刺した。弟の熊曾建はこれを見て逃げ出したため、追いかけて室の階段の下で追い付いて、背を掴んで尻から短剣を突き刺した。

  そのときに熊曾建が話したいことがあるから、剣を動かさずにいて欲しいと言ったので、小碓命は押し伏せたまま短剣は動かさないでいた。

  熊曾建はまず出自を聞いたので、小碓命は景行天皇の御子であり、天皇に服従しない無礼な熊曾建の討伐を天皇から命じられて遣わされたと答えた。

  熊曾建は大和国に自分たちよりも強い者がいることと、その無礼を認めて、小碓命に倭建御子〔ヤマトタケ(ル)ノミコ タケルは本来卑称〕という名を送った。

  その後で小碓命は熟した瓜を割くように、熊曾建を切り裂いて殺した。

  こうして小碓命に倭建命(ヤマトタケノミコト)という名が生まれた。

  出雲建の討伐

  倭建命は都に帰る途中にも、山の神や河の神、穴戸神(アナドノカミ 海峡の神)を平定していった。

  出雲国で倭建命は出雲建(イズモタケル)を打ち倒そうと考え、その家に着くとすぐに友として契りを結んだ。

  そして倭建命は赤檮(イチイノキ)で偽の刀を密かに作って帯刀した上で、出雲建を連れ立って、肥河(ヒノカワ 今の斐伊川)へ水浴びをしに行った。倭建命は先に川から上がって、出雲建の大刀を身に付けながら、刀を交換した上での大刀合わせを提案した。それに乗った出雲建は倭建命の精巧に作られた偽刀を身に付けた。

  そうして大刀を抜く段階になって、出雲建が抜くことができずに手間取っている間に抜刀し、出雲建を切り殺した。

  倭建命はそのとき「やつめさす 出雲建が 佩ける(ハケル)大刀 黒葛多纏き(ツズラサハマキ) さ身なしにあはれ」〔「(やつめさすは出雲にかかる枕詞 多くの芽が伸び出ずるの意)出雲建が見に付けたその太刀は、蔓が何回も巻き付けられていて、とても立派な飾り鞘だが、その実は刀身がない偽の刀であって、気の毒で仕方がない」〕という歌を詠んだ。

  このようにまつろわぬもの(朝廷に帰順しない神や民)たちを打ち倒して帰京した。

  倭建命の東征

  景行天皇は帰京して間もない倭建命に向かって、東方十二道(ヒムカシノカタトオアマリフタミチ 伊勢から陸奥までの十二国)を平定するように命じ、伴として御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)を付けた。またそのときに、比比羅木之八尋矛(ヒヒラギノヤヒロボコ 柊で作った長い矛)を与えた。

  倭建命は東へと下っていき、伊勢の天照大御神の宮に詣でた。そしてその斎王である叔母の倭比売命と話し、何度も危険な任を命じるということは、きっと天皇は自分に死んでほしいに違いないと涙を流しながら訴えた。倭比売命は倭建命が出発するときになって、草那芸剣(クサナギノツルギ)と袋を渡し、危急のときに袋の口を開けるようにいった。

  その後尾張国まで進んだ倭建命は美夜受比売(ミヤズヒメ)の家に泊まり、任を果たした帰りに再び寄って結婚すると約束を交わした。

  倭建命は山や河のまつろわぬ神や人々を平定しながら進み、相武国(サガムノクニ 相模国 神奈川県)に到着した。そこの国造は倭建命に野原の中には沼があって、住んでいる神はとても強暴であると嘘を吐き、野原に誘い出そうとした。

  倭建命はその神を見ようと野原に入ってしまい、これを見た国造は野原の草に火を放った。騙されたと気が付いた倭建命は何とかしようと倭比売命から貰った袋を開いた。

  中には火打ち石が入っており、草那芸剣で草を薙いでから火打ち石で向かい火を付けて、燃え来る火を退け野原を脱出した。その後国造の一族を探し出して、一族郎党を滅ぼし、火を付けて焼き払った。このような由来で焼遣(ヤキツ 静岡県焼津にあたるが相模国ではない)という地名が付いた

  さらに東へ行き、走水の海(ハシリミズノウミ 東京湾の入り口で房総半島と三浦半島の間、現在の浦賀水道)を渡るとき、海峡の神が波を荒立てたために、船は先に進むことができなかった。

  そこで倭建命の后である弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)が、倭建命の代わりに海に入るといい、菅(スゲ)製の畳、皮製の畳、絹製の畳を海の上に敷き、その上に下りて沈んだ。

  そのときに弟橘比売命は「さねさし 相模(サガム)の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」〔「(さねさしは相模に掛かる枕詞で、山々の意)あの相模国の野原で燃え盛る火の中に立って、私の名を呼んで気遣ってくれたあなた様よ」〕という歌を詠んだ。

  弟橘比売命が沈むと、波は凪いで船は進むことができた。

  それから七日経ってから、弟橘比売命の櫛が海岸に流れ着き、倭建命はそれで御陵(千葉県茂原市の橘樹神社に社伝あり)を作った。

  さらに東に進んで、蝦夷(東北のまつろわぬもの全体を指す)や山や河のまつろわぬ神を次々に平定して、都に帰った。

  その帰路で、足柄峠(神奈川県南足柄市と静岡県駿東郡小山町の境界付近)の麓で、干し飯(携帯食)を食べているときに、白い鹿に姿を変えたその峠の坂の神が現れた。倭建命は食べ残した蒜(ニンニクを含む総称 臭いが強いことから魔除けの意)の欠片を打ったところ、鹿の目に当たり殺した。

  その後、峠の頂上に登り、そこで弟橘比売命のことを思い起こして、三度深いため息を吐き、「あずまはや」(「我が妻よ」)と漏らした。

  このことが由来となって、その国を阿豆麻(アズマ)と呼ぶようになった。

  阿豆麻から甲斐国(山梨県)を越えて、酒折宮(サカオリノミヤ 山梨県甲府市酒折神社)に滞在していたとき、「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」(「新治、常陸(共に茨城県)と過ぎて、何度夜を越えたことだろう」)という歌を詠んだ。

  それに答えて、篝火を守る老人が「日日(カガ)なべて 夜には九夜 日には十日を」(「日を数えると、夜は九回、昼は十回過ぎました」)と返した。

  倭建命はこの老人を誉め、東の国造(アズマノクニノミヤツコ)に任命した。

  甲斐から科野国(シナノノクニ 信濃国、長野県)に入り、科野の坂の神(長野県と岐阜県の県境にある神坂峠の神)を平定し、尾張国の美夜受比売の元に寄った。

  そこで美夜受比売は倭建命にご馳走をし、盃を捧げたが、そのときの着物の裾に月経の血が付いていた。これを見て倭建命は「ひさかたの 天の香久山 とかまに さ渡る鵠(クビ) 弱細(ヒワボソ) 撓や腕(タワヤガイナ)を 枕かむとは 我はすれど さ寝むとは 我は思へど 汝(ナ)が着せる 襲の裾に 月立ちにけり」(「(ひさかたのは天に掛かる枕詞)天の香久山をかすめ、鎌のような姿で空を渡る白鳥。その細い首のように嫋やかな貴女の腕を抱いて、共に寝たいと思うけれど、貴女の襲(着物の一種)の裾にもう月が出ている」)

  この歌に答えて、美夜受比売は「高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば(キフレバ) あらたまの 月は来経ゆく(キヘユク) 諾な諾な(ウベナウベナ) 君待ちがたに 我が着せる(ケセル) 襲の裾に 月立たなむよ」(「日の神の御子、我が大君よ。年を経れば月も出て去っていく。長い間月日が早く過ぎて、貴方が戻ってくることを待っていたので、着物にも月が差し昇るのでしょう」)と返した。

  そうして二人は共に寝て結婚した。その後、倭建命は草那芸剣を美夜受比売の元に預けて、伊服岐山(伊吹山 滋賀県と岐阜県の境界)の神を討ちに出かけた。

  国思歌

  倭建命は素手で討ち取るつもりで山に登ろうとしたときに、白い猪に出会った。

  これを神使と思い込んだ倭建命は、猪に向かって神を殺した後で殺すと呟いた。しかしこの白い猪こそが伊吹山の神であったので、倭建命が頂上に登ったところで、激しい雹を降らせて、正気を失わせた。

  倭建命は這う這うの体で、玉倉部の泉(タマクラベ 滋賀県米原市醒井もしくは岐阜県不破郡関ヶ原町玉)に辿り着き、しばらく休んでいるうちに正気を取り戻した。これがこの泉を居寤の清泉(イサメノシミズ)と呼ぶ由来である。

  玉倉部を出て西に向かっている途中の当芸野(タギノ 岐阜県養老郡)、足が疲れてきて前に進まない(たぎたぎしい)と呟いた。これがその土地を当芸(タギ)と呼ぶようになった由来である。

  当芸野を出てすぐに疲れが一層増し、杖を突いてゆっくりと歩いた。故にその地を杖衝坂(三重県四日市市采女町から鈴鹿市石薬師町の間)と呼ぶようになった。

  尾津前(オツノサキ 三重県桑名市多度町戸津の岬)の一本松の下に到着すると、行きにそこで食事をしたときに置き忘れていた大刀(タチ)がそのまま残っていた。

  それを見て倭建命は「尾張に 直に(タダニ)向かへる 尾津の埼なる 一つ松 吾兄を(アセヲ) 一つ松 人にありせば 大刀佩けましを 衣着せましを 一つ松 吾兄を」(「尾張国に向き合って立っている尾津の岬の一本松よ。お前が人であったなら大刀を佩びさせ、着物を着せただろうに。一本松よ。」)という歌を詠んだ。

  さらに進んだ三重村(三重県四日市市采女町付近)で、倭建命は疲れ果て、足が三つに重ねた餅のようになったと漏らした。これがこの地の由来である。

  その後倭建命は、能煩野(ノボノ 三重県鈴鹿市の鈴鹿山脈の麓)に至って、故郷を偲び歌を詠んだ。

  「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる(ヤマゴモレル) 倭し麗し」(「大和は国々の中でも最も秀でた国。青々とした山が重なり合って、垣を作っている。この山々に囲まれた大和は素晴らしい。」

  また「命の 全けむ人は 畳薦(タタミコモ) 平群(ヘグリ)の山の 熊白檮(クマカシ)が葉を 髻華(ウズ)に挿せ その子」〔「命がある人たちは、(タタミコモはコモで作った敷物の意で枕詞)幾重に重なる平群の山の樫の葉をかんざしにして挿すが良い。お前たち。」〕という歌を詠んだ。この歌は国偲歌と呼ばれる。

  さらに「愛しけやし(ハシケヤシ) 我有(ワギエ)の方よ 雲居起ち来も」(「愛しの我が家の方より、雲が立ち上る。」)という、片歌(五七七の歌で、本来は対となる歌があるべきもの)を詠んだ。

  このときに倭建命は病に罹り、危篤状態となった。

  そして「嬢子(オトメ)の 床の辺に(トコノベニ) 我が置きし つるきの大刀 その大刀はや」(「美夜受比売の床に置いてきた草那芸剣よ。その大刀よ。」)という歌を詠んで、そのまま息絶えた。

  この訃報は都へと早馬で伝えられた。

  白鳥

  都である大和にいた倭建命の后や御子たちは、訃報を聞いて能煩野(ノボノ)へと下り、御陵を作った。そしてその傍らの田を這い廻り、泣きながら歌を詠んだ。

  「なづきの 田の稲茎(イナガラ)に 稲茎に 這い廻ろふ(ハイモトオロフ) 野老葛(トコロヅラ トコロは芋の一種)」(「御陵の傍らにある田んぼの稲の茎に這うように絡まっている野老の蔓。」)

  そのとき倭建命が大きな白鳥となって、天を翔けて浜の方に飛んでいった。

  これを見た后や御子たちは、そこに生えていた篠竹(シノダケ 笹の仲間の総称)の刈り株に足を裂かれながらも、痛みを忘れて泣きながら、その白鳥の後を追った。

  このとき「浅小竹原(アサジノハラ) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」(「篠の生えた野原に腰を取られて進めない。でも空は飛べないので、足を使って歩くしかない。」)と歌を詠んだ。

  さらに追って海に入ったときに、「海処(ウミガ)行けば 腰なづむ 大河原の 植草 海処は いさよふ」(「海を行けば海水に腰を取られて進めない。広々とした河に生えている水草がゆらゆらと揺れるように、海ではゆらゆらと足がおぼつかない。」)と歌を詠んだ。

  また白鳥が岩礁の多い海岸に止まったときに、「浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ」(「浜辺の千鳥よ。どうして歩くことのできる浜ではなく磯を伝っていくのだ。」)と詠んだ。

  この四つの歌は倭建命の葬儀のときに歌われ、天皇の大葬のときにも歌われることとなった。

  そして白鳥は能煩野を飛び去り、河内国の志幾(大阪府柏原市)に止まったため、その場所に御陵を作った。故にそこは白鳥の御陵と呼ばれ、倭建命の神霊は鎮座することとなった。

  しかししばらくして白鳥は志幾からまた飛び去ってしまった。

 

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