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日本の神々-古事記編-垂仁天皇-前

ここでは垂仁天皇を中心にまとめる

・伊玖米入日子伊沙知命(イクメイリヒコイサチノミコト)

  御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエノミコト 崇神天皇)御真津比売命(ミマツヒメノミコト)の一番目の子

  左波遅比売命(サハジヒメノミコト 後述の沙本毘売命)を妻にして、品牟都和気命(ホムツワケノミコト 後述の本牟智和気御子)を生んだ

  氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト 比婆須比売命、※後述の兄比売のこと)を妻にして、印色之入日子命(イニシキノイリヒコノミコト)、大帯日子淤斯呂和気命(オオタラシヒコオシロワケノミコト)、大中津日子命(オオナカツヒコノミコト)倭比売命(ヤマトヒメノミコト)若木入日子命(ワカキイリヒコノミコト)の五柱を生んだ

  沼羽田之入毘売命(ヌバタノイリビメノミコト)を妻にして、沼帯別命(ヌタラシワケノミコト)伊賀帯日子命(イガタラシヒコノミコト)を生み、阿邪美能伊理毘売命(アザミノイリビメノミコト)を妻にして、伊許婆夜和気命(イコバヤワケノミコト)阿邪美都比売命(アザミツヒメノミコト)を生んだ

  迦具夜比売命(カグヤヒメノミコト)を妻にして、袁邪弁王(オザベノミコ)を生み、苅羽田刀弁(カリハタトベ)を妻にして、落別王(オチワケノミコ)五十日帯日子王(イカタラシヒコノミコ)伊登志別王(イトシワケノミコ)を生んだ

  弟苅羽田刀弁(オトカリハタトベ)を妻にして、石衝別王(イワツクワケノミコ)石衝毘売命(イワツクビメノミコト)を生んだ

  別名に垂仁天皇(スイニンテンノウ)があり、また伊玖米入毘古伊佐知命(イクメイリビコイサチノミコト)という表記されることもある

  師木の玉垣宮(シキノタマガキノミヤ 奈良県桜井市穴師付近)にて、天下を治めた

  垂仁天皇は百五十三歳で崩御し、その御陵は菅原の御立野(ミタチノ)の辺り(奈良県奈良市尼辻西町、宝来山古墳)にある

  沙本毘古王の反逆

  ある時、開花天皇の孫である沙本毘古王(サホビコノミコ)は、自身の妹で天皇の后である沙本毘売命(サホビメノミコト)に、「自分と夫である垂仁天皇のどちらをより大事に思うか」と尋ねた。沙本毘売命はこの質問に兄と答えたので、沙本毘古王は垂仁天皇を殺害して兄妹で天下を統治するという計画を話して、沙本毘売命に八塩折(何度も醸造を繰り返した酒の転化で、何度も打って鍛え上げた刀の意)の紐小刀を渡し、真に兄のことを大事に思うのであれば、垂仁天皇が寝ている間に刺し殺すように言いつけた。

  沙本毘売命は垂仁天皇が自身の膝を枕にして寝ているときに、紐小刀を振り上げて、垂仁天皇の首に刺そうとしたができなかった。そして振り上げて下ろすを三度繰り返した後、その悲しい気持ちに耐えきれずに涙をこぼした。

  その水滴が天皇の顔に落ちて、目を覚ました垂仁天皇は、沙本(奈良県佐保台法連町周辺)の方からにわか雨が降り出して顔を濡らし、また錦色の小蛇が首に巻き付くという不思議な夢を見たといい、何の前兆だろうかと漏らした。

  沙本毘売命はこれを聞き、もはや隠し通すことはできないと感じて、兄の計画について話した。また兄と対面している状況下での質問に本心を述べることができなかったということ、悲しみから首を刺すことができなかったという自身の気持ちとともに、一連の行動を打ち明け、夢はそれらの表れであるといった。

  これを聞いた垂仁天皇は危うく騙されるところだったと漏らして、すぐに兵を起こし、沙本毘古王の討伐に向かった。沙本毘古王も稲城(イナキ 実のついた稲を積み重ねて築いた城柵のことで、稲を攻撃するというタブーを逆手に取ったもの)を作って、迎え撃った。

  沙本毘売命は兄を大事に思う気持ちに耐えきれず、宮廷の裏門から抜け出して、兄のいる稲城に入った。垂仁天皇は三年も寵愛を向けていただけでなく、現在自身の子を身篭っている沙本毘売命への思いから、城を包囲させたのみで一斉攻撃を仕掛けなかった。

  そうして膠着状態のまま両軍が睨み合っているうちに、沙本毘売命が出産した。

  沙本毘売命は生んだ子供を稲城の外に置いて見せ、自分の子と思うなら引き取るようにと垂仁天皇に呼びかけた。

  垂仁天皇は沙本毘古王には憎しみがあるが、沙本毘売命はやはり大事に思っているといって、御子の受け取る使者に力持ちかつ俊敏な優れた兵士を選んで集め、御子を受け取るときに、沙本毘売命のどこかを掴んで、稲城の外に引っ張り出すように言いつけた。

  沙本毘売命はそんな垂仁天皇の心の内を読んでおり、髪は剃った後もう一度かつらのようにして載せ、玉飾りの腕輪はその紐を腐食させてから三重に腕に捲き、着物も酒で腐食させてから着て、一見完璧な衣装のように仕立てた。そして御子を抱いて入り口に向かい、稲城の外に差し出した。

  兵士たちは言いつけ通りに、御子を受け取ると同時に沙本毘売命を掴んだが、髪を引っ張るとすぐに取れ、手首を引っ張ると玉飾りの紐が千切れ上手く掴めず、着物を引っ張るとすぐに破れてしまって、結局沙本毘売命を引っ張り出すことができなかった。

  この報告を聞いた垂仁天皇は悔い恨み、また玉飾りを作った人を憎んで、その土地をすべて没収した。このことが「地を得ぬ玉作り(トコロヲエヌタマツクリ)」という諺(装飾品の不安定な消長を示したとする解釈や、褒美ではなく罰が当たったという解釈がある)の由来である。

  垂仁天皇はすべての子供の名は母親が命名するものとして、沙本毘売命に御子の名を聞いた。沙本毘売命はこれに答え、戦火が稲城を焼くときに生まれた子であるとして、本牟智和気御子(ホムチワケノミコ)と名付けた。

  続けて、養育の仕方について尋ねたので、沙本毘売命は乳母、大湯坐(オオユエ 赤子を湯に入れる役目の女)、若湯坐(ワカユエ 大湯坐の補佐)を決めて育てるようにいった。

  最後に誰を新たな妻とすれば良いか〔(誰が私の下着の紐を結んでくれるのか(妻が夫の下着の紐を結ぶ習俗があった)〕と尋ねたので、沙本毘売命は美知能宇斯王(ミチノウシノミコ)の娘である兄比売命(エヒメ おそらく比婆須比売命、氷羽州比売命のこと)弟比売(オトヒメ)の二人を心の清い人として、候補に挙げた。

  これらを聞き終わった後、垂仁天皇は攻撃を開始し、沙本毘古王を殺した。沙本毘売命も兄に殉じた。

  物言わぬ御子

  垂仁天皇は本牟智和気御子を可愛がり、倭の市師池(奈良県桜井市)や軽池(奈良県橿原市大軽町)で舟遊びをさせるにおいても、わざわざ尾張国(愛知県の西部)の相津(未詳 福島県の会津ではない)の二俣杉(二俣に分かれた杉)をくりぬき小舟を作って、都まで持ってこさせるほどであった。

  しかし本牟智和気御子は髭が鳩尾に届くまでに成長しても、言葉を話さなかった。そんな中、空を飛ぶ白鳥の声を聞いて、本牟智和気御子が口を動かし、言葉らしきものを発したことがあった。もう一度その白鳥を見たら、御子は口を利くようになるのではないかと考えた垂仁天皇は、山辺大鷹(ヤマノベノオオタカ)にこれを捕えるように命じた。

  山辺大鷹は木国(紀伊国 和歌山県、三重県南部)、針間国(播磨国 兵庫県南西部)、稲羽国(因幡国 鳥取県東部)、旦波国(丹波国 京都府、大阪府、兵庫県の一部)、多遅麻国(但馬国 兵庫県北部)、近淡海国(近江国 滋賀県)、三野国(美濃国 岐阜県)、尾張国、科野国(信濃国 長野県)、高志国(越国 北陸地方)と追って、遂に和那美の水門(ワナミノミナト 新潟県)で網の罠により捕えることに成功した。またこの和那美というのも罠網から名付けられた地名である。

  山辺大鷹は捕えた白鳥を都に戻って献上したが、白鳥を見ても本牟智和気御子は喋らず、垂仁天皇の思惑は外れた。

  このように垂仁天皇は本牟智和気御子が口を利かないことを憂いていたが、ある夜夢の中で、自分の宮殿を天皇の宮殿のように立派なものに整備すれば、本牟智和気御子は口を利くようになるというお告げがあった。後に太占で占った(牡鹿の肩骨を焼いて吉凶をはかる)ところ、そのお告げは出雲の大神(大国主神)のものであり、御子が物言わない祟りもこの神によるものと判明した。

  垂仁天皇は本牟智和気御子を大国主神の宮に参詣させることにし、その伴として占いで当たった曙立王(アケタツノミコ)を付けることにした。

  そして出発させる前に曙立王に宇気比(ウケイ)をさせて、参詣することで御子の受けた祟りが本当に解けるのかを確かめた。具体的には「出雲大神の宮に参詣することで本牟智和気御子の受けた祟りが解けるのなら、鷺巣の池(奈良県橿原市四分町)の木に住む鷺は落ちるように」という文言で誓約をし(て結果によって神意を判断した)た。

  この鷺は宇気比の誓約通りに落ちて死んだため、参拝には効果があるということが示された。曙立王はその後に「生き返るように」といって、この鷺を生き返らせた。また甜白檮の前(アマカシノサキ 奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘の突端)にある葉の広い大きな樫の木についても、宇気比によって枯らし、生き返らせた。

  これを受けて垂仁天皇は曙立王に、倭師木登美豊朝倉曙立王(ヤマトハシキノトミノトヨアサクラノアケタツノミコ)という名を与えた。

  本牟智和気御子は曙立王とその弟である菟上命(ウナカミノミコト)を伴に出雲へ向かうことになり、どの道を行けば良いかを占った。それで奈良山(奈良県北部の平城山)から京都経由で向かう奈良口、穴虫峠を越えて大阪府経由で向かう大阪口は、蹇(アシナエ 足が不自由な人)や盲(メシヒ 目が不自由な人)に会う道だが、真土山を越えて和歌山県経由で向かう紀伊口は吉の道と出たので、紀伊口の道で進むことになった。

  そうして本牟智和気御子一行は出雲に到着し、無事に出雲大神の宮の参詣を終えた。

  都に帰る途中、出雲国の肥河(ヒノカワ 今の斐伊川)の岸に、皮のついた丸太を簀子状にした橋と仮の宮を作って、宿泊をすることになった。

  そこに出雲国造〔イズモノクニノミヤツコ ミヤツコは姓(カバネ 一種の称号)〕の祖である岐比佐都美(キヒサツミ)が、青々と茂った木々で山の形の飾りを作って川の下流に置いてから、食事を献上しに訪れた。

  このときに、本牟智和気御子は岐比佐都美に対して「川下の山を象った飾りは、出雲の石砢の曽宮(イズモノイシクマノソノミヤ 砢は石に向が正しいようだ)に鎮座する葦原色許男大神(アシハラシコヲノオオカミ)を祀るために榊を立てた祭壇なのか」と尋ねた。

  これを聞いて曙立王と菟上命は御子が話したことに喜び、御子を檳榔の長穂宮(アジマサノナガホノミヤ 蒲葵のことでヤシに似ている)に移し、垂仁天皇に知らせるべく早馬の使いを出した。

  その宮にいるときに、本牟智和気御子は肥長比売(ヒナガヒメ)と一夜共にし、結婚したが、姿を密かに覗き見したところ、その正体は蛇であった。これに恐れおののいた御子は伴と共に船に乗って逃げ出した。

  傷付いた肥長比売は海を照らしながら、船で追いかけてきた。これを見た御子はいっそう恐ろしくなり、陸に接地し、山の低くなっている部分から船を引き上げて、陸路で都に上って行った。

  こうして本牟智和気御子一行は都に到着した。曙立王と菟上命は出雲大神に参拝したことで、御子の祟りが解けて、物を言うようになったと垂仁天皇に報告した。

  これを聞き喜んだ垂仁天皇は菟上命を引き返させ、出雲大神のための宮殿(現在に出雲大社)を建設させた。

  また天皇は御子のために、大湯坐若湯坐だけでなく、鳥を捕える役割を担う鳥取部(トリトリベ)、鳥を飼う役割を担う鳥甘部(トリカイベ)、また、御子が出雲への旅で訪れた土地ごとに、御子の名を受け継ぐ名代として品遅部(ホムジベ)の民も定めた。

 

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