開花天皇以外の孝元天皇の系譜についての記述をまとめる
以下の簡略化した家系図のオレンジ、黄色、水色で囲った部分を、それぞれ第一、第二、第三グループとして、分けて書いているので参考にしてほしい
※括弧付きの数字は記事番号で、この記事外の時系列(原典表記順)で、その神についての説明があった場合に、説明の前に付けてある 時系列で追っていきたい場合はその部分は読み飛ばすことを推奨する
第一グループ(オレンジ)
・建沼河別命(タケヌナカワワケノミコト)
大毘古命(オオビコノミコト)の子で、孝元天皇の孫
阿倍臣(アベノオミ オミは姓(カバネ 一種の称号)〕らの祖
(33)平定のための派遣
崇神天皇の御世に行われた、まつろわぬ者(帰順しない神や民 相手の神を祀らないという意味)の平定に参加し、東方十二道(ヒムカシノカタトオアマリフタミチ 伊勢から陸奥までの十二国)を任された。
また、その最中に現在の福島県会津若松市で、父であり高志国(コシノクニ 北陸地方のこと)の平定を任されていた大毘古命(オオビコノミコト)と、偶然会ったことがその地を相津(アイズ)と呼ぶ(当時)ことの由来となった。
・比古伊那許士別命(ヒコイナコジワケノミコト)
大毘古命(オオビコノミコト)の子で、孝元天皇の孫
第二グループ(黄色)
・味師内宿祢(ウマシウチノスクネ)
比古布都押信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)と葛城高千那毘売(カヅラギノタカチナビメ)の子で、孝元天皇の孫
山代の内の臣〔ヤマシロノウチノオミ オミは姓(カバネ 称号の一種)〕の祖
・建内宿祢(タケウチノスクネ)
比古布都押信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)と山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)の子で、孝元天皇の孫
子に、波多八代宿祢(ハタノヤシロノスクネ)、許勢小柄宿祢(コセノオカラノスクネ)、蘇賀石河宿祢(ソガノイシカワノスクネ)、平群都久宿祢(ヘグリノツクノスクネ)、木角宿祢(キノツノスクネ)、久米摩伊刀比売(クメノマイトヒメ)、怒能伊呂比売(ノノイロヒメ)、葛城長江曽都毘古(カヅラギノナガエノソツビコ)、若子宿祢(ワクゴノスクネ)の男七柱、女二柱がいる
第三グループ(水色)
・波多八代宿祢(ハタノヤシロノスクネ)
建内宿祢(タケウチノスクネ)の子で、孝元天皇の曾孫
波多臣〔ハタノオミ オミは姓(カバネ 一種の称号)〕、林臣(ハヤシノオミ)、波美臣(ハミノオミ)、星川臣(ホシカワノオミ)、淡海臣(オウミノオミ)、長谷部君(ハツセベノキミ キミは姓)の祖
・許勢小柄宿祢(コセノオカラノスクネ)
建内宿祢(タケウチノスクネ)の子で、孝元天皇の曾孫
許勢臣〔コセノオミ オミは姓(カバネ 一種の称号)〕、雀部臣(サザキベノオミ)、軽部臣(カルベノオミ)の祖
・蘇賀石河宿祢(ソガノイシカワノスクネ)
建内宿祢(タケウチノスクネ)の子で、孝元天皇の曾孫
蘇我臣〔ソガノオミ オミは姓(カバネ 一種の称号)〕、川辺臣(カワヘノオミ)、田中臣(タナカノオミ)、高向臣(タカムコノオミ)、小治田臣(オワリダノオミ)、桜井臣(サクライノオミ)、岸田臣(キシダノオミ)らの祖
・平群都久宿祢(ヘグリノツクノスクネ)
建内宿祢(タケウチノスクネ)の子で、孝元天皇の曾孫
平群臣〔ヘグリノオミ オミは姓(カバネ 一種の称号)〕、佐和良臣(サワラノオミ)、馬御樴連(ウマノミクイノムラジ ムラジは姓)らの祖
・木角宿祢(キノツノスクネ)
建内宿祢(タケウチノスクネ)の子で、孝元天皇の曾孫
木臣〔キノオミ オミは姓(カバネ 一種の称号)〕、都怒臣(ツヌノオミ)、坂本臣(サカモトノオミ)の祖
建内宿祢(タケウチノスクネ)の子で、孝元天皇の曾孫
建内宿祢(タケウチノスクネ)の子で、孝元天皇の曾孫
・葛城長江曽都毘古(カヅラギノナガエノソツビコ)
建内宿祢(タケウチノスクネ)の子で、孝元天皇の曾孫
玉手臣〔タマデノオミ オミは姓(カバネ 一種の称号)〕、的臣(イクワノオミ)、生江臣(イクエノオミ)、阿芸那臣(アギナノオミ)らの祖
・若子宿祢(ワクゴノスクネ)
建内宿祢(タケウチノスクネ)の子で、孝元天皇の曾孫
江野財臣〔エノノタカラノオミ オミは姓(カバネ 一種の称号) 江野間臣(エヌマノオミ)とも〕の祖
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