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陰陽五行説(二)-陰陽論の成立

ここでは陰陽論の成立について説明する。

詳しい原理の説明については別の記事〔易(二)-易の原理-陰陽論〕を見てもらうとして、ざっくりと陰陽論とは陰と陽の二つの構造で世界は成り立っていることを述べるものであるので、そこを終着点として展開を追っていく。

陰陽の発生

そもそも陰陽とは何だったのか。

これらの字がいつ頃に作られたものなのかについての詳細は不明だが、字義の観点からの原初の意味の考察したものに白川静のものがある。

白川は陽は「阝」は神が上り下りする階段を「日」が玉を「勿」は台を表すとし、全体的な意味として玉を供えて神を迎える場所を表したとしており、陰についても原初は地域のこと指し、川の北方を表していたとしている。

また古い時代の用例としては、「詩経(BC9C~BC7Cの詩を集めたとされる中国最古の詩篇)」の記述が挙げられ、これに参照する限りでは、「日陰」や「日向」といった意味で使われている。

陰陽の展開

少し時代が下り、「孫子(BC6Cごろの孫武の著作だが、現在のはBC3-2C頃のもの)」では、「日陰」や「日向」の意味から転じて「隠れる」や「明らか」の意味で使われるようになっており、また「孫子虚実篇」の中で高低などの対立概念が変化することを説明している。

この段階において、陰陽の抽象化が進み、後の陰陽論の核となる対立概念部分の萌芽が見え始める。

孫臏(ソンピン BC4Cごろ活躍した軍師で孫武の子孫)の「地葆篇」は軍事的に地形の優劣を説いたものであるが、この中で地形を陰陽に分けて、陽の地形では正規陣を陰の地形では伏兵の陣を敷くというように、陰陽の概念の抽象化が進んでいる。また城を雄牝に分類した「雄牝城篇」では対立概念の強弱、変化を述べ、この概念の原理についても、「孫子」段階から陰陽論に近づいている。

また「老子徳経(BC6Cごろの老子の著作とされている 成立時期は不明 BC3Cごろか)」には、「万物は陰に負い陽に抱く。」という記述があり、ここでは陰陽が一体となっていることが示されている。

このように陰陽論の展開は具体から抽象の流れで進んでいった。そして「易経」の十翼「繋辞伝」に至って、ようやく体系的な理論として成立することになる。

「易経」の成立については別の記事で説明しているので、そちらを参照してもらうとして、その本文である爻辞(コウジ 象辞ともいわれる)には、中孚九二にのみ、日陰の意味で陰が載せられているだけであり、この成立年代においては陰陽の影はない。

しかしその補助的解説書である十翼においては、陰陽とその下位概念である剛柔がよく記述されており、十翼の中で特に古い「彖伝」や「象伝」では、反発や交流関係をもつ対立概念である剛柔が多く記述された。

その後に成立した「説卦伝」においては、剛柔の上位概念としての陰陽が示され、そして「繋辞伝」において、陰陽に「日往けば則ち月来り、月往けば則ち日来り」というような循環的思想が備わったことで、互いに反発、交流、循環する対立概念である陰陽が、陰陽論として完成することになった。

成立年代の特定が困難な十翼の代わりに、「淮南子(BC179-BC122の思想書)」の内容に参照すると、これに「陽は陰より生じ、陰は陽より生ず。陰陽相まじり、四維はじめて通ず」という記述があることから、循環的思想はBC2Cごろに成立したものと考えられる。このことからBC2Cごろが陰陽論の成立年代といっても良いだろう。

余談だが「汲冢書(戦国時代BC403-BC221)」では、「易経」本文には十翼の代わりに陰陽説が付属していたという話が載っている。いかに易と陰陽論が強く結び付いたのかを物語るとして、述べておく。

 

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