易(二十三)-周易六十四卦-晋・明夷

六十四卦(十七)

詳しい前書きは易(六)を参照

本文の構造としては、性質の部分がその卦の性質つまりその卦に対応する物事の性質を表し、の部分が該当する物事への総合的な対処方法、の部分は卦の性質の構成物としての性質の詳細情報と、該当する物事への細かい対処方法である。

書き下し文は卦辞、爻辞のみで「中村璋八・古藤友子(1992)『周易本義』明徳出版社」を引用している。しかしその解釈文は、卦辞、爻辞、彖伝、象伝なども参考にしたものであり、また引用文とは異なった書き下し方をして解釈した部分もあるので、書き下し文と解釈文が食い違うことがあるということをご留意願いたい。

またそれぞれの卦の後ろの一言は「丸山松幸訳(1973)『易経-中国の思想第七巻-』徳間書店」の引用である。一言でその性質を分かりやすく示すとして記載したが、私の解釈とは一致していない場合もある。

35.晋(シン)晋(火地晋 カチシン)旭日昇天

  性質

  晋は前進を示す卦である。

  坤の卦に離の卦が載っている卦で、明智(離)に付き従って(坤)前進することを表す。

  大象も地上に昇る太陽である。

  

  ・晋は、康侯用て(モッテ)馬を錫はること蕃庶たり。昼日三たび接はる(マジワル)。

    ―国に尽くした諸侯には頻繁に馬が与えられ、謁見は一日に三回も許可される。〔明智(ここでは明君主)に付き従って前進する〕

  

  ・初六、晋如(シンジョ)たり摧如(サイジョ)たり。貞しければ(タダシケレバ)吉なり。孚とせらるること罔けれども(ナケレドモ)、裕か(ユタカ)なるときは咎なし。

    ―自分独りの信念によって進もうとするが、失敗する。信念を貫けば吉である。誠意を認められなくても、悠々としていれば咎めは受けない。(九四と正応だが、不正)

  ・六二、晋如たり愁如(シュウジョ)たり。貞しければ吉なり。玆(コ)の介いなる(オオイナル)福をその王母に受く。

    ―進もうとして、その困難に苦悩する。その正しさ(進むこと)を持続させれば吉である。祖母から大いなる福を受ける。(不応で付き従う対象がおらず苦しむが正、六五から福を受ける)

  ・六三、衆允(マコト)とす。悔亡ぶ。

    ―前進への誠意が民衆に認められる。悔いることはない。(不正だが、下の二陰に認められる)

  ・九四、晋如たる鼫鼠(セキソ)。貞しけれども厲し(アヤウシ)。

    ―不当な位置にまで進んだ鼠。正しい態度を維持しようとしても、危うい。(不正)

  ・六五、悔亡ぶ。失得恤ふる(ウレウル)なかれ。往けば吉にして利しからざることなし。

    ―悔いるようなことはない。損得に一喜一憂してはいけない。進むのならば、喜びがあり、吉で良くないことはない。(不正で不応だが、明智の中爻であるので、悔いはない)

  ・上九、その角に晋む(ススム)。維れ(コレ)用て邑(ユウ)を伐てば(ウテバ)、厲けれども吉にして咎なし。貞しけれども吝なり。

    ―角の部分を進む。自分の領地を平定するのは危ういが、吉であり咎めは受けない。これは正しい行為ではあるが、非難は受ける。(晋の極致で進む場所がないので、自分の領地を平定するが、賊を討伐しなければならない時点で良い統治ができていたとはいえず、非難を受ける)

36.明夷(メイイ)明夷(地火明夷 チカメイイ)艱難汝を玉にす

  性質

  明夷は明智が傷付き敗れることを示す卦である。

  離の卦に坤の卦が載っている卦で、暗闇(坤)に覆い隠される光(離)を表すことから、このような性質がある。

  大象も地に沈む太陽である。

  

  ・明夷は、艱みて(クルシミテ)貞しき(タダシキ)に利し(ヨロシ)。

    ―艱難の状況下にあり、明智を隠すことで正しい志を維持させることができる。

  

  ・初九、明夷る(メイヤブル)、于き(ユキ)飛びてその翼を垂る。君子于き行きて、三日食はず。往くところあれば、主人言ふ(モノイウ)ことあり。

    ―明智が敗れる。これを知って飛んで離れ、翼を収める。君子でも三日食事にあり付けないが、暗愚な環境で禄を貰うような義に反することをするのは、賢明でない。進んで行っても、その場所の君主に非難される。(卦の最下位で明智が敗れるとき)

  ・六二、明夷る、左の股(モモ)を夷る(ヤブル)。用て拯ふ(スクウ)に馬壮ん(サカン)なれば、吉なり。

    ―暗愚の支配が進み、左のももが傷付く。壮健な馬の助けを借りることができるのならば、吉である。(陰爻、正で中爻、初陽の助けが得られれば吉)

  ・九三、明夷る、于きて南狩して、その大首(ダイシュ)を得。疾く貞すべからず。

    ―暗愚に支配される。南に行きその首級を挙げるが、性急に事を進めてはならない。(離の最上位で陽爻 暗愚たる上六と正応であり、その行いを正すことができる)

  ・六四、左の腹に入る。明夷の心を獲て(エテ)、于きて門庭を出づ。

    ―暗愚の内部にいて腹の内を知り、その門庭から出る。(暗闇に染まりきっていない、正)

  ・六五、箕子(キシ)の明夷る。貞しきに利し。

    ―箕子(殷・周王朝時代の政治家 殷王朝最後の王、紂王の暴政を諫めようとするも、聞き入れられず、逆に恨みを買った。そこで箕子はその明智を隠し奴隷に身をやつすことで、自身の正しさを保ちつつ、不当な攻撃を防いだ。紂王が滅びた後、周王朝において復帰し朝鮮を封じられた。)は明智を隠して、志の正しさを保った。このような態度を保てば良い。(中爻)

  ・上六、明かならず(アキラカナラズ)して晦し(クラシ)。初めは天に登り、後には地に入る。

    ―明智ない暗愚。初めは天子として四海を治めるも、後に転落し地に沈む。(明夷、暗闇の極致 最後は自身をも傷つける)

 

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易(二十二)-周易六十四卦-遯・大壮

六十四卦(十六)

詳しい前書きは易(六)を参照

本文の構造としては、性質の部分がその卦の性質つまりその卦に対応する物事の性質を表し、の部分が該当する物事への総合的な対処方法、の部分は卦の性質の構成物としての性質の詳細情報と、該当する物事への細かい対処方法である。

書き下し文は卦辞、爻辞のみで「中村璋八・古藤友子(1992)『周易本義』明徳出版社」を引用している。しかしその解釈文は、卦辞、爻辞、彖伝、象伝なども参考にしたものであり、また引用文とは異なった書き下し方をして解釈した部分もあるので、書き下し文と解釈文が食い違うことがあるということをご留意願いたい。

またそれぞれの卦の後ろの一言は「丸山松幸訳(1973)『易経-中国の思想第七巻-』徳間書店」の引用である。一言でその性質を分かりやすく示すとして記載したが、私の解釈とは一致していない場合もある。

33.遯(トン)遯(天山遯 テンザントン)一歩後退

  性質

  遯は退避を示す卦である。

  艮の卦に乾の卦が載っている卦で、その形は陰の勢いが増している時であることを示す。そしてその勢い増して退かずに留まるもの(艮)と、剛強(乾)に対峙するのではなく、時の流れに逆らわずに退避するということを表す。

  大象は天に迫る山であり、天はその山を潰すことなく領域を譲るということを表している。

  

  ・遯は亨る(トオル)。小は貞しき(タダシキ)に利し(ヨロシ)。

    ―(遯の道に従えば)上手くいく。小人は貞淑を保つのが良い。(陰たる小は成長しているが、だからといって必要以上に陽を侵すのは良くない)

  

  ・初六、遯尾なり。厲し(アヤウシ)。往くところあるに用ふるなかれ。

    ―逃げ遅れる。災があるので、動いてはいけない。(卦の形から上位ほど先に逃げることを考えると、初爻は最も逃げるのが遅い)

  ・六二、これを執ふる(トラウル)に黄牛の革を用ふ。これを説くに勝る(トオル)なし。

    ―立派な牛の革で縛られているような、堅固な意志である。これを崩すことはできない。(九五と中正、陰位の陰爻で保守的である)

  ・九三、係遯す。疾(ヤマイ)ありて厲し。臣妾(シンショウ)を蓄へば吉なり。

    ―繋がれる豚(豚は逃げ足が速いことから、この卦では例に出されている)。関わりによって苦悩し疲れて危うい。臣や妾を養う程度ならば良い。(下の陰との関わりができる)

  ・九四、好遯す。君子は吉なり。小人はしからず。

    ―好みの状況でも離れる。君子はできるが、小人はできない。(初九と正応であるが、剛健の陽爻で退避することができる)

  ・九五、嘉遯す。貞しければ吉なり。

    ―よく退避する。正しい志を貫くならば吉である。(六二と中正、正)

  ・上九、肥遯す。利しからざることなし。

    ―豊かな豚。良くないことはない。(九三と不応でしがらみがなく、悠々と退避する)

34.大壮(タイソウ)大壮(雷天大壮 ライテンタイソウ)喧騒の虚しさ

  性質

  大壮は興隆を示す卦である。

  乾の卦に震の卦が載っている卦で、剛健(乾)に動く(震)を表すことから、勢い盛んなことを示す。また卦の形は、上に昇る性質をもつ陽が盛んになっている様子を示す。

  大象は天に鳴り響く雷である。

  

  ・大壮は、貞しき(タダシキ)に利し(ヨロシ)。

    ―正しい態度を貫けば良い。(正しさがあって初めて順調に栄えることができる)

  

  ・初九、趾(アシ)に壮ん(サカン)なり。征きて凶なること孚あり。

    ―信念が極まって足が盛んである。進めば凶。(陽爻であり、興隆の時流の中、前に進もうとするが、最下位であり分不相応)

  ・九二、貞しければ吉なり。

    ―中庸の徳を維持すれば吉である。(不正であるが、中爻)

  ・九三、小人に壮を用ひ、君子は罔(モウ)に用ふ。貞しけれども厲し(アヤウシ)。羝羊(テイヨウ)藩(マガキ)に触れて、その角を羸ましむ(クルシマシム)。

    ―活発さ自体は正しいことだが、危うい状況にある。そのような状況下でも、小人はその勢いを活かして進むが、君子はその蛮勇さは持ち合わせておらず、進まない。血気盛んな牡羊は垣に突っ込み、角をひっかけて苦しむ。(下卦の最上位 時流とはいえ、考えなしに突っ走ることを戒める)

  ・九四、貞しければ吉にして悔亡ぶ。藩決けて(ヒラケテ)羸まず。大輿(タイヨ)の輹(フク)に壮んなり。

    ―正しい態度を貫ければ吉で、悔いることはない。垣は開いて苦しみはなくなる。車は大きく、その輹(車体と車軸を繋ぐ部品)は十分に堅固である。進むべきである。(上二つは陰爻なので、障害はなくなる また陰位にあって、九三のような蛮勇性は抑えられる)

  ・六五、羊を易(タヤスキ)に喪ふ。悔なし。

    ―牡羊の姿は見失うが、悔いるようなことはない。(不正 陰爻で活発さはなく、進むことはない)

  ・上六、羝羊藩に触れて、退くこと能はず、遂む(ススム)こと能はず。利しきところなし。艱しめば(クルシメバ)吉なり。

    ―牡羊は垣に向かって突っ込むが進めず、角が引っ掛かって退くこともできない。良いことはないが、苦しみに耐えれば吉である。(興隆の極致で活発に過ぎ退けず、陰爻なため進むこともできないが、耐え忍ぶ陰の徳を実践すれば吉である)

 

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陰陽五行説(三)-五行説の成立

ここでは五行説の成立について説明する。

例によって、詳しいことは原理の記事で説明するが、五行説の中で大きな影響力を誇る中心的な原理であり、五行の相互関係を規定する理論であるところの相克説、土王説、相生説の成立を終着点として、その展開を追っていく。

五行説の発生

五行説と聞いて、まずそもそもなぜ五なのかという疑問が出るだろう。

これは平岡禎吉が述べているように、四方と中央を祀る殷代以降の五方信仰から出たものであるという考えが有力だろう。また「春秋左伝(BC7C-BC3Cごろまでの歴史が書かれた書物)」や卜辞(卜占のために骨に刻んだ殷代の文)に、五が付くものが頻出することから、五は神聖な数として扱われていた、という解釈も、これに関連するものとして考えることができる。

そしてその五という数を用いて、生活上で重要なものの象徴を選んで生まれたものが、水・火・金・木・土の五材である。

これは生活の基本的な構成物質として成立した。「春秋左伝」の「天、五材を生じ、民ならびにこれを用う。ひとつも廃すること不可也」また「尚書(書経のことで最古の政治史 成立年代は不明)」の「水火は、百姓の飲食するところなり。金木は、百姓の興作するところなり、土は、万物の資生するところなり。これ人の用となす。」という記述は、その性質をよく表している。またここから、五材が相互関係も循環的思想も備えていないことも読み取ることができる。

相互関係の不備については、五行に関する最古の記述である「書経洪範篇(戦国時代BC403-BC221)」の「五行。一に曰く水、二に曰く火、三に曰く木、四に曰く金、五に曰く土。水はここに潤下(流れて潤す)し、火はここに炎上し、木はここに曲長(曲がったり真っ直ぐになったりする)し、金はここに従革(加工されて形が変化する)、土はここに稼穡(カショク 穀物を収穫する)する」にも見えるように、初期の五行においても引き継がれており、五行の前段階としての五材の存在が推測できる。

またこの記述では五材と比べて、それらの運動的特性を抽出したものとなっていることが読み取れ、この抽象化が五材と五行の差異といえるだろう。

五行の行の意味については原理の部分で詳しく説明するが、「呂氏春秋(戦国時代BC403-BC221)」に書かれているように「行はその数を行うなり。その数を行うとは、その理を巡る也」といった運動的循環的な性格のことを指すとされる。

五行説の展開

「墨子(戦国時代から秦BC403-BC206)」に「木は火を生じ、火離然ゆ。火の金を溶かすは火多ければ也。金炭を曝すは金多ければ也。之を合し水と成し、木は土を離く。」という記述があり、ここにおいて循環的な相互関係、相剋説の萌芽を見ることができる。また「孫子」における「五行に常勝なく、四時に常位無し」の記述も、これに近いものと解釈できる。

五行説の主要原理の一つであるところの、相克説の確立については、鄒衍(スウエン BC3Cごろの陰陽家)の提唱した五徳終始説(終始五徳説)でなされる。これは、王朝の興隆と衰退は五行の相克関係に従って行われるとして、前王朝と相克関係にある王朝がその国を治め、そこでは五行の徳に則った政治をすべきというものである。

これを改良した陰陽主運説によって、木と火を陽に金と水を陰に配当することになり、ここに至って初めて陰陽論と五行説が結合することになった。以後この結合は現在に渡って引き継がれている。

この陰陽主運説を基盤に、月毎にすべき政治的な行為を定める月令や、土を他の四つよりも上位に置く土王説といった、五行説を構成する重要な思想が生まれることになった。

土王説については五行説の主要な原理の一つであり、これは陰陽主運説から引き継ぎ発展させた四季と四方の配当との関係の中で、「淮南子〔劉安(BC179-BC122)の編書〕」や「春秋繁露〔董仲舒(BC179-BC104)の著作〕」に至って完成をみた。

五行説の主軸となるもう一つの原理である相生説についても、この「淮南子」と「春秋繁露」で言及されており、これは「淮南子墜形訓」にて、「土錬れて、木を生じ木錬れて火を生じ、火錬れて雲を生じ、雲錬れて、水を生じ水錬れて土を生ず。」という記述から読み取れる。

そして劉歆(AC1Cごろの学者)が土王説と相生説を現在の形に整備し、ここにおいて相克説、相生説、土王説の五行説の三大原理が出揃うこととなった。

これらの動きと並行して、またそれ以後も、干支や五常など様々なものを陰陽五行説に配当するという動きが続く。が、その展開の説明は五行説の成立という本旨から外れてしまうため、それについては立ち入らず、このあたりで終わりとする。後の記事でまた詳しく説明しようと思う。

 

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陰陽五行説(二)-陰陽論の成立

ここでは陰陽論の成立について説明する。

詳しい原理の説明については別の記事〔易(二)-易の原理-陰陽論〕を見てもらうとして、ざっくりと陰陽論とは陰と陽の二つの構造で世界は成り立っていることを述べるものであるので、そこを終着点として展開を追っていく。

陰陽の発生

そもそも陰陽とは何だったのか。

これらの字がいつ頃に作られたものなのかについての詳細は不明だが、字義の観点からの原初の意味の考察したものに白川静のものがある。

白川は陽は「阝」は神が上り下りする階段を「日」が玉を「勿」は台を表すとし、全体的な意味として玉を供えて神を迎える場所を表したとしており、陰についても原初は地域のこと指し、川の北方を表していたとしている。

また古い時代の用例としては、「詩経(BC9C~BC7Cの詩を集めたとされる中国最古の詩篇)」の記述が挙げられ、これに参照する限りでは、「日陰」や「日向」といった意味で使われている。

陰陽の展開

少し時代が下り、「孫子(BC6Cごろの孫武の著作だが、現在のはBC3-2C頃のもの)」では、「日陰」や「日向」の意味から転じて「隠れる」や「明らか」の意味で使われるようになっており、また「孫子虚実篇」の中で高低などの対立概念が変化することを説明している。

この段階において、陰陽の抽象化が進み、後の陰陽論の核となる対立概念部分の萌芽が見え始める。

孫臏(ソンピン BC4Cごろ活躍した軍師で孫武の子孫)の「地葆篇」は軍事的に地形の優劣を説いたものであるが、この中で地形を陰陽に分けて、陽の地形では正規陣を陰の地形では伏兵の陣を敷くというように、陰陽の概念の抽象化が進んでいる。また城を雄牝に分類した「雄牝城篇」では対立概念の強弱、変化を述べ、この概念の原理についても、「孫子」段階から陰陽論に近づいている。

また「老子徳経(BC6Cごろの老子の著作とされている 成立時期は不明 BC3Cごろか)」には、「万物は陰に負い陽に抱く。」という記述があり、ここでは陰陽が一体となっていることが示されている。

このように陰陽論の展開は具体から抽象の流れで進んでいった。そして「易経」の十翼「繋辞伝」に至って、ようやく体系的な理論として成立することになる。

「易経」の成立については別の記事で説明しているので、そちらを参照してもらうとして、その本文である爻辞(コウジ 象辞ともいわれる)には、中孚九二にのみ、日陰の意味で陰が載せられているだけであり、この成立年代においては陰陽の影はない。

しかしその補助的解説書である十翼においては、陰陽とその下位概念である剛柔がよく記述されており、十翼の中で特に古い「彖伝」や「象伝」では、反発や交流関係をもつ対立概念である剛柔が多く記述された。

その後に成立した「説卦伝」においては、剛柔の上位概念としての陰陽が示され、そして「繋辞伝」において、陰陽に「日往けば則ち月来り、月往けば則ち日来り」というような循環的思想が備わったことで、互いに反発、交流、循環する対立概念である陰陽が、陰陽論として完成することになった。

成立年代の特定が困難な十翼の代わりに、「淮南子(BC179-BC122の思想書)」の内容に参照すると、これに「陽は陰より生じ、陰は陽より生ず。陰陽相まじり、四維はじめて通ず」という記述があることから、循環的思想はBC2Cごろに成立したものと考えられる。このことからBC2Cごろが陰陽論の成立年代といっても良いだろう。

余談だが「汲冢書(戦国時代BC403-BC221)」では、「易経」本文には十翼の代わりに陰陽説が付属していたという話が載っている。いかに易と陰陽論が強く結び付いたのかを物語るとして、述べておく。

 

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陰陽五行説(一)-前書き

陰陽五行説とは、古代中国で形成された世界解釈のための体系であり、普遍的性格をもつ記号の体系である。

その性格ゆえに、様々な思想に対して大きな影響力をもち、神話や宗教だけでなく、天文学や暦学、医学、地理学といった自然科学や、政治学、哲学といった人文社会科学といった、中国のほとんど全ての思想の基礎には、陰陽五行説が存在した。

また東洋における強者的立場にあった中国の思想は周辺国で盛んに輸入され、それに伴い陰陽五行説も流入し根付くことになった。日本においても同様で、陰陽道という形で日本人の生活の大部分を長らく支配することになった。

陰陽五行説とは、東洋文化を丸ごと覆っている東洋的思考を端的に表したものということもできるだろう。

ここではその陰陽五行説について解説していく。

陰陽五行説が陰陽論と五行説の融合であることは、その名称から容易に推測ができると思うが、これはまさにその通りで、陰陽五行説について語るには、まず陰陽論と五行説についての説明をする必要がある。そういうわけで構成としては、まずは陰陽論、次に五行説を解説してから、陰陽五行説の解説に入る。

またそれぞれの原理を説明する前に、その発生と展開について説明しておこうと思う。というのも、歴史的変遷を知っていた方が原理の理解がしやすいと思うからである。

参考文献

根本光人監修(1991)『陰陽五行説―その発生と展開―』薬業時報社

吉野裕子(1983)『陰陽五行と日本の民俗』人文書院

中村璋八・中村敞子訳(2004)『陰陽五行学説入門』たにぐち書店

 

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